数寄者だった祖父が、晦庵をスタートさせました。

京の社長と数珠紐

2008年09月08日 12:00

第10回 有限会社晦庵 河道屋 植田健社長 vol.1



株式会社三嶋亭の三嶌太郎社長から、正業の職に真面目にとりくんだほがらかな方で、
人柄もよく、仕事に一生懸命はげんでおられる社長さんです、
と紹介をいただいた有限会社晦庵河道屋の植田健社長です。
晦庵河道屋は江戸時代から続く生そばの老舗です。



――蕎麦ほうるで有名な「総本家河道屋」とは元々同じ会社だったそうですね。

はい。もとはひとつの会社だったのを私の父が会社組織としては
“蕎麦ほうる”を扱う「株式会社総本家 河道屋」と
“蕎麦”の「有限会社晦庵 河道屋」とに分けたのです。

父が存命中は、父が会長として「晦庵 河道屋」の社長を兼任していました。
父が亡くなってから「晦庵 河道屋」の社長に私がなりました。
「総本家 河道屋」の社長は兄が継いでいます。


――「河道屋」は江戸時代から続いているそうですね?

河道屋の成り立ちは現存する記録としては享保8年(1723年)になります。
当時の町内の書きつけが残っています。
また明治の頃に書かれた家伝の書には、
元禄(1688~1703年)から宝永(1704~1710年)年間には
上京の方で商いをしていたとされています。

それが火事にあって、現在の場所に移ってきたということです。
この場所に来て何年経っていたかは分からないのですが、
享保8年にはこの場所にあったということです。
そこで創業300年くらいといっています。


――当時からお菓子とお蕎麦で商売をされていたのですか?

当店は高価な砂糖をつかうような上物の菓子屋ではなく庶民の菓子屋だったそうです。
そういう菓子屋では、菓子と並んで蕎麦切りを売っていました。
お菓子の傍らで蕎麦などの麺類を売るのは、
江戸時代には、わりと一般的な形態だったようです。
なのでお菓子とお蕎麦、どっちが本業だったのかは厳密にはわからないのです。

明治期には、お蕎麦の方が繁盛していたのですが、
明治から大正の頃に「蕎麦ほうる」を復活させ、評判になったということです。


――晦庵が分かれたのはいつになるのですか?
私の祖父が「総本家 河道屋」で「蕎麦ほうる」と両方やっていた蕎麦の部門をきりはなし、
昭和7年に蕎麦屋を現在の晦庵のある地に移しました。

祖父はお茶をよく嗜むような数寄者だったので、
数奇屋作りの建物をたてて、晦庵をスタートさせました。
今の建物は昭和7年に建てられたものなので、
古くはなっているのですが、この風情を大切にしたいですね。

晦庵 河道屋HP
河道屋HP

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